ブラザレンの諸断章 

ブラザレンと呼ばれるキリスト者集団についてのさまざまな収集した断片的情報やそれについて考えたことを載せていきたいと思っております。

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2013年1月14日に東大阪市民会館で開催された学び会での大まかな講演記録(4)

前回更新から、だいぶん間が空きましたが、今年の新春信徒学び会の参加記を公開したいと思います。今回が最後で、一番最後に学ばれた方の講演録です。このセッションでは、関西のもっとも古い集会の一つのNさんがお話になられたことの記録です。

最も大切な教えは、キリストのいのちがある、ということであり、集会(教会)に求めておられることとして、大宣教命令を取り上げられた。

まぁ、確かに大宣教命令は書かれてはいるが、それだけが集会(協会)に求められていることのすべてではなく、あくまで一つの側面でしかないように思うのだが・・・。私のように誤解する人は、まぁ、いないのだろう。


初代集会の実例として、エルサレム教会の話が出てい。そして、彼らに新たな信徒が毎日のように加えられていた、という実例が取り上げられていた。また、ヨハネ17章のイエスの祈りの中にも、弟子たちを遣わす話があった、という指摘があった。さらに、聖霊によってエルサレム教会が導かれていたという指摘があった。


まぁ、この指摘自体は間違いはないし、異論はない。しかし、こういう信者が増加するようなことを聖霊の働きとリンケージさせることって、どうなんでしょうねぇ、とは思った。 

創世記11章に現れるバベルの塔の話から、一致団結して集会を立てよう、大きな事を成し遂げようという部分に人間の傲慢、罪の性質があり、人の目を集めたいという思いがあるのではないか、という話があった。

個人的に繁栄の神学が大嫌いなものとして、まぁ、この部分は共感できたように思う。しかし、直前に話された数の論理で考えることとこのような考え方とを、どうバランスさせるんだろう、という素朴な疑問をもった。

イエスが、「私の教会を建てる」という話があり、イエスの目的と方法があり、そして、イエスによって教えられた通りに弟子たちは従ったという話がされた。

新約聖書に指示されたのは、憲法のようなもので、個別の行動まで指示するようなものではないと思うのだが…。


ゼカリア4章の中に出てくる、金の燭台の幻があった。さらに、弱っているイスラエルが、『立てられる』 ために、ゼルバベル(ヨシュア)がリーダーとなっているし、新約聖書でイエスが教会の基礎であるというお話があった。教会を建てるのは、個人の持つ能力や権力で建てるのではなく、神の働きがなければ、人間の名を高くあげることにすぎなくなるし、人間によるのであってはならない、というお話であった。

ま、キリスト教会におけるゲリラ組織としては当然である。


さらに、聖書の中で、一番大切な教えとは「心をつくし、思いを尽くし、知力を尽くしてあなたの神を愛せ。あなたの隣人を愛しなさい。」であり、イエス語自身も言うように、「律法全体と預言者がこれにかかっている。」ことである。ところで、「神である主を愛せ、隣人を愛せ。」については、神を愛するとは、神の戒めを守ることであり、イエスのことばを守ることでもある。また、「隣人を愛せ」については、善いサマリア人の話でもあり、「どこまでもみすてない」ということであり、イエス・キリストの姿であり、人間にはできないことである。

聞きながら思ったのは、しかし、これは、他者とずぶずぶの底なし沼関係に入るということではないと思うのだね。よいサマリア人の話がおもしろいのは、あのサマリア人は、彼の仕事をつづけている点である。一時的に襲われた人を離れているとも思うのだが。この辺、境界線という本を参照したほうがよいかもしれません。


キリストのいのちについてとして、永遠のいのち、創造主である方としてのいのちであり、人間や動物のいのちとは違うものである。それは、父なる神と一体であるいのちであり、父と私は一つということろに現れている。また、この父と子が一体であるいのちとは、恵みと誠に満ちたいのちであり、いのちを得る条件としては、御子を信じるか否かであり、この信仰によっていのちが与えられるのであり、信じた瞬間に御霊が宿り、御霊が教え導くようになる。

その後の聖霊の内住はイエスの時ではなかった。そして、ヨハネ6:51から、キリストのいのちを(健全な形で)持ち続けることになることが話され、これは、ヨハネ15章における私を食べ続けなさい。ということや、イエスにとどまれ。というブドウの木のたとえなどへとつながっている。さらに、とどまるとは、イエスを信頼し続け、従い続ける、という意味である。

大きな異論はないが、聖霊の内住はイエスの時ではなかった。うーん、これはそうだろうか。限られた事例とはいなかったとは言い切れないように思うのだが。


 新谷博美という方の「病気にならない生き方」という話がされ、親と同じようなライフスタイルをしているからその子供も似たような病気になり、毎日の習慣が、人を形作る。というお話が例示としてもちいられ、何を食べ続けているのか、・・・ということが問題だと話があり、そのあと、ボードに張り付けた図が提示された。

http://blog-imgs-42.fc2.com/e/s/s/esseysonbrethren/2013021718031396f.png



マタイ28に示されている、大宣教命令では、弟子とせよ、とされているし、教会は共同体であり、共同体としてバプティスマを行うことも大事ではないか、という話があった。
 さらに、礼拝とは、神を愛することであり、神に従うことであるという話がなされた。

 ここまでは大きな異論はない。


初代教会について、使徒 2:48を例にとり、毎日、礼拝していたということが触れられ、パウロが言う、生きた聖なる供え物としてささげよ、とは、毎日の生活が礼拝である旨の話がされたが、最も適した時間、内容がある旨の話がなされた。 

しかし、生きることが礼拝だとしたら、適切な場所とか時間とか、内容そのものがあるのだろうか。そもそも、人間にとって良いと思うものは、神にとって、実にくだらないものでしかない可能性があり、それすらもよしとされ礼拝とされる神、ということを考えるとどうなんでしょうかねぇ、と思いました。


 初代教会のころは、持物を共有にしていて、必要に応じて分配し、喜びも悲しみも共有していた。また、食事をともにするというのは、かなり大事なことで、という話があった。

じゃ、なぜ今しないのか、その根拠はそれをどのように理解するのか、という話はあまり明確に話されなかった。この辺、ラウシェンブッシュの議論とのかかわりをもう少し考えたほうがよいと思う。


 使徒たちの教えを固く守ったとして、それが、新約聖書の書簡である旨をご発言があった。

むしろ、使徒たちの教えは、書簡集よりもむしろ、まず福音書として結晶化したのであり、書簡のみを取り上げ、使徒たちの教えと本当に言ってよいのか、ということを思った。これは、パウロ神学の優先性につながるのではないだろうか、このあたりが、集会での聖書の扱いとして、福音書は福音集会向けのものとされ、書簡及び旧約を学び向けのものとするような雰囲気(根拠は薄弱だと思う)につながるところがあると思う。


 また、それぞれの必要に応じて分配していたことを取り上げ、これは奉仕を意味し、共同体の中で仕え合うことであることを話しておられた。

しかし、これが奉仕を意味するかどうかは、もう少し厳密な釈義が必要ではないだろうか。共同体の中で仕え合うことは、そもそもイエスが、愛し合いなさいということの中に含まれているように思うのだが。


 新しい教えとして、キリストがなしたようにする事が触れられていた。
しかし、その中身について語られた記憶がないのは、私の聞き方が悪かったのだろう。

 また、毎日救われる人を加えて下さったというのは、宣教の結果である、ということであった。

もちろん、弟子たちが話したのはあるだろうが、しかし、ナザレのイエスが生き返ったかも、という話は、当時のマスメディアである噂話の中でかなり広がっていたのではないだろうか。エマオの途上の弟子たち談によると、その部分もあるとは思う。


ヨハネ17章の主の祈りのなかに、私は彼らによって栄光を受けた、彼らが一つとなるためです。という話があった。
これはその通りなので、特に異論はない。
 
そのあと、イエスはみことばを与え、そして、みことばは聖別するから(ここは要注意)、この世から分離したものとして生きるという話がなされた。

しかし、聞きながら、これを根拠に分離派として生きていいんですか?と思ってしまった。

 さらに、イエスが愛したその愛が残っているし、また、イエス自身が、互いに愛し合うことを示すために、世に遣わしたものとしての弟子があるという話がなされた。


確かにそういえばそうなのだが、世にキリスト者が遣わされたのは、神が存在し、神が世を愛されたこと、神のもとに戻れ(罪を悔い改めて神とともに生きよ=神の国民として生きよ)を伝えるためではないかと、ヨハネ3章16節が一瞬チラッと頭に掠めた。


世間には、伝道しないキリスト教の群れがあり、親類におられるそうで、それはどうか、と思う、というお話をされた。
一例をもってすべてを騙るのはやめませんかねぇ、と思ってしまった。

聖霊によってということで、ローマ8:11から我々のうちに御霊がおられということと、幕屋の構造のアカシア材の中に通す横木は、目に見えない一致を与える聖霊のメタファーでは、という解釈がされた。

さすがに、これは読み込みすぎではないか、と思った。なら、我々はアカシア材の幕屋の板ですか?移動の際はそれぞればらばらになりますよね。それよりも、すべてのものを貫く父なる神という表現の方が、重要ではないか(エペソ4)、と思うのですが。


この後、エペソ4:1ー3やピリピ2:1などが引用された。
しかし、ユニティとユニフォーミティの区別は大事ではないか、と思った次第。

その後、柔和と謙遜をもって仕え続けるなら、もっと集会はよくなるという話がなされた。
しかし、何のために、ということを見逃すとどうなんざんしょ。
弟子訓練について、言及があり、奉仕とは、賜物に従って奉仕するのだ、ということが述べられ、個人が中心になるのではなく、御名の益となる、ということで2コリント12:7などが言及された。
奉仕は神の益のためではあるが、奉仕だけが神の益のためにあるのではないことは、念頭に置くべきかなぁ、とは思った。

伝道のなかで、罪について気付いてもらいにくい、という話があった。
ききながら、それは罪という問題の設定というか説明が十分ではないからではないだろうか、と思った。この罪の問題については、聖霊が教え 最終的には、聖霊が罪と義と裁きについて教えるという話がされた。しかし、ほんとだろうか。これを支持する聖書の言葉ってなんだろうか。と思ってしまった。

また、パウロの宣教は、聖霊の御力の表れという話があった。
これも下手をすると、繁栄の神学への裏口がそこのあるような気がする。

いま、私が生きているのは、キリストによる、という理解が大切で、自我であり、肉なる性質を捨てた。キリストにあって死んだもの、と考えることが大切、という話があった。
しかし、これは本当にパウロが言いたかったことなのだろうか、本当に言ったことなのだろうか、と思ってしもうた。キリストにあって死んだ、ということがどういうことか、もう少し説明がいるように思った。これこそ、僧籍に入る感覚と同じではないか。聖書はそんなことを言っているのだろうか、と思ったのだな。


個人が変わらないと、集会が変わらない。集会がおかしいのであれば、いうべきではないか。
これはおっしゃるとおりである。しかし、それで、その集会がザワザワザワ、となったり、その意見を牧会の任にある人々がどのようにくみ取り、対応していくというプロセスが今の我が国におけるキリスト集会にあるのだろうか、ということは思った。

ほぼ最後の付近で、地上での生活の期間ももうあとわずか、残された日は少ない。というご主張がなされた。
この切迫感というのか、危機意識をあおる感覚はどこから来るのだろうか。ご本人がそうお考えなのはいいが、個人の危機感で全体をあおらないでいただきたかった。

また、教会生活は、知識ではなく、毎日の生活を通じてするらしい。
個人的には、知識も毎日の生活も、日々神とともに生きる生活することを通しての礼拝も大事だと思うんだが。


全体としては、終末論を前提にした教会論、教会にどう奉仕していくのか、ということが主要なご主張であった。全体として反対というわけではないが、週末に主要な関心を向け、終末論を起点とした生き方は、どっか歪んでいると思うのは、私がひずんでいるからであろうという意見だけをつけてまとめを終わっておく。

個人的にどのような教理が、正しいとか、正しくないとかは、人間の目には重大事かも知らんが、基本神の目の前に誤差範囲、許容範囲だと思うので、それぞれが自分たちが大事だと思うことに中心をおきつつ、それこそ素朴に聖書を読み、考え、神との交流をしていくことが大事ではないか、と思った次第。



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2013年1月14日に東大阪市民会館で開催された学び会での大まかな講演記録(3)

午後は、午前に続き、九州沖縄地方の集会のIさんがお話になり、キリストを表す集会となるための神の御取り扱いについてのお話でした。どうも、このテーマで、ということで、企画側から来たテーマのようでした。

教会自体の信者は、キリストを表す集会として置かれているというお話がありました。

 この概念自体は、Missio Deiから考えて、その通りだと思います。

 旧約時代にもなく、あとの時代においてもない。ということだと、ご主張されておられました。


 ということは今が一番いい、ということでしょうかね?神の御国が完全な形で成立したとしてもですか?千年王国よりも、と思ってしまった。


 信者のうちに内住しておられる神があり、2コリント3:16-18を見る限り、わたしたちはみな、栄光を映し出す存在であるという話であった。

 1ペテロ2:19-25では、不当な苦しみを受けても悲しみをこらえるなら…という表現があり、これは、聖霊によって、とりなしをする、敵対するものを愛する姿になるようにされるということであり、キリスト者がそういう風に変えていかれたい、という思いを持ち、練り上げられ、変えられれば幸いであるという話であった。

 まぁ、この話は異存がないが、こうご主張されるためには、もう少し、霊性の話をきちんとしないとまずいのではないか、とは思った。


 そのあと、教会時代は非常に素晴らしい。後の時代にもない素晴らしさ、というお話であった。

 これ、こう言いきってしまっていいんですかね。教会時代だけが、よいということになりますが。

 従順は、祝福につながり、反逆は、呪いにつながるというお話がされた。

 ある意味で、旧約的な世界観にこの部分はあるけれども、この論理を進めていくと、結果から原点に向かう話になるのではないか、と危惧した。

 十字架による恵みと特権に従ってその時代を歩むのが教会時代である旨の話がされた。

 ただ、十字架による恵みと特権とは何か、ということはほとんど触れられないまま終わったので、もうちょっと聞きたかった。

 教理については、特権を語っているのであり、だから、望ましく歩むべきだという話がされた。

 どのような視点で、どのようにという話は一切なかったような気がする。
 そのあとて、義認と聖化と栄化ということについて触れられたが、生きた供え物として自分自身をささげて歩め、とお話になっておられた。

 これは、本当に生きた供え物ということが、神と共に歩むものということを意味しているのかどうかは、よくわからなかった。下手をすると、集会への奉仕の強要ということにならないか、と思った。

 使徒11:19から最後までと13:1-3から、アンティオケ教会について触れられたが、ステパノの殉教事件以降の迫害によって、結局ユダヤからギリシア世界に移ったが、その結果、アンティオケに伝道がなされた。ここで、「一粒の麦が死ななければ・・・・」という話がされた。

 しかし、この表現を、ステパノに当てるのはかなり無理があるとは感じた。


 バルナバの派遣があり、パウロのタルソからの呼び出しがあったが、ステパノ事件のときにはパウロのその場にいたのが、そのパウロの呼び出しをうけていた。そして、ユダヤ人と異邦人が一緒に集まっており、御霊による一致があったとお話しておられた。

 え、パウロが伝道の場にしていたのは、当時のユダヤ教のシナゴーグで、あなたたちが知らずに読んでいるメシア(キリスト)がもう来たのだ、といったので、当時のギリシア語を中心にしゃべるヘブライ人と改宗ユダヤが大挙して、当時のユダヤ教のシナゴーグを出たのであり、聖霊による一致ということを言うのは、言い過ぎではないかと思う。

 また、大勢のものが信仰をもつことは、御霊の一致だという側面で話しておられた。

 しかし、それでは、キリスト集会は聖霊が内在しないことを言うことになるのではないか、とは思った。数と祝福とを重ねる論理は、私が望ましいと思わない繁栄の神学の裏ルートになっているので、個人的には違和感を覚えた。

 アンティオケ教会についてのわかりやすい分離と和解についてのビデオクリップがあるのでご紹介(ただし英語のみ)。http://dunelm.wordpress.com/2013/01/28/the-antioch-incident-and-tvs-friends/
 要するに、着ているものや外見的なものだけで差別と分離が起きる、というわかりやすいお話だが、食べるものや、しゃべる言葉、何人かというエスニシティによっても、差別と分離が起きるというお話です。フレンズは、アメリカの有名なシットコム(シチュエーション・コメディ)。



 つづいて、使徒11:17-18からは、異邦人がヘブル人と同じ立場になった、という話がされた。


 しかし、ここも、聖霊が与えられたことを確認できた、ということを言っているだけで、必ずしも立場が同じだ、という意味ではないと思うのだが。むしろ、旧約の預言が成就し、イエスが行っていたことが成就し、それがイエスなしに実現したのだ、というところに弟子たちの感動があるように聞き手としての私は感じるのだけれども。

 さらに、使徒の11:21では、神の手があったので、多くの人が信じた…。ということから、御霊による一致があったという話をされた。また、御霊の一致があると、前進する、それを阻害するのが、虚栄心、・・・・というものであるというような話がされた。

  御霊による一致と神の手があったという話の混乱があるように思い、この二つは、区別したほうがよいのではないか、と思った。さらに、人間の虚栄心ごときで神の業が進まないのであれば、それはもはや神の業ではないのでは、というのは言い過ぎだろうか。神の力ということの恐ろしさについて、一度ゆっくりとこの方からお聞きしてみたい。

 その後、復活された夕方と昇天する時、イエスは聖霊についての言及をしておられるように聖霊は重要である。 この話がなくても、それ以前にもイエスは、ほぼ常時といってよいほど、触れておられるので、重要だとは思った。

 使徒行伝では、聖霊がすべてを導いている、というお話がなされた。

 まぁ、確かに使徒行伝は、聖霊についての言及は多く、聖霊が重要な役割をはたしているが、すべてを導いているわけでもないだろう。パウロが行く道を間違えたのも、聖霊の導きになるが。こういうのを文脈を無視した議論というのかもしれないが、基本的にこのセッションが、ここまで書いてきたように聖霊について触れられたものであるので、この表現は、誤解を生みそうだ、とは思った。

 Act11:22-24から、バルナバは、常に主にとどまる、主の臨在の中に歩むように教えた、ということが言及された。

 
 主の臨在の中に歩むということは間違っていないのだが、これって、神の国を生きる、ということではないかと思うのだが、違うのだろうか。そうなら、そういってほしかったが、多分、伝統的なディスペンセイション主義の方なので、違うのだろう。これこそ、神の国はあなた方の中にある、というイエスの表現の意味だと思うのだが、違うのだろうか。多分、私の理解が違うのだろう。

 詩篇119篇の中から146-152節が取り上げられ、148節の「みことばを求める」ということが話された。これこそ、「シェマー イスラエル(聞け、イスラエルよ)」という申命記のことばの人間側からの対応なのではないかと思った。

まとめとして、
■御霊の一致があったこと
■御霊の導きに従っていたこと(バルナバの模範を当時のキリスト者たちが見て従っていたこと)
■主が賜物を与えた人々によって整えられていたこと
 (バルナバは、パウロを呼びに行っているおり、教えの不足をカバーしたこと、さらに、バルナバは、兄弟愛に優れ、困窮するユダヤへの支援などを行っていたこと。
■聖霊の支配を受けて導かれていたこと(そして、聖霊に服従していた)

 必ずしも、パウロやアポロに見られるように、そうとも言い切れない事例がたくさんあると思うのですが、そう思うのは、私の理解が不足しているのでしょう。多分。プリスキラの例をどう考えるんでしょうね。 
  
 午前中のセッションほど、違和感はなかったですが、十分な聖書の解説というのか、十分な学びになっていたか、ということは少し疑問で、お話になられた方が、聖霊が大事であり、聖霊に導かれて進みたい、というお考えであることは大変良くわかりましたが、引用される聖句の適用については、かなり疑問が残る点があり、なぜ、そうなるのかという説明がないこともあり、無理やり当てはめた、という感じがしました。


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2013年1月14日に東大阪市民会館で開催された学び会での大まかな講演記録(2)

 午前中の第2セッションは、「神が集会をキリストのいのちによって購われた理由」ということで、九州沖縄地方の教会の責任者であるIさんがお話になられた。

 この方も、終末が近い中で、聖書のことばを学ぶことは重要であるということを冒頭にお話しになられた。さらに、『教会時代』が素晴らしい時代であることの確認をしてみたいということであった。

 Iコリント10:31-33から、現代の教会時代が、ユダヤ人・異邦人(ギリシア人)・神の教会(キリスト者)という3種類の人々が共存する時代であることの説明をされた。

 そのうえで、選民としてユダヤ人があり、ユダヤ人の特権があるとともに、ローマ人への手紙9章の中から、キリストとユダヤ人との関係が重要であることが語られた。

 聞きながら思ったことは、ここから、それを言うことがかなり厳しいと思うのだが。また、このためには、先験的(アプリオリ)にディスペンセイション主義についての前提で聖書を読んでいるのではないか、と素朴に思った。このような異邦人とユダヤ人、キリスト者という切り方で読むことが本当に正しいのだろうか、と思ってしまった。これは聞き手としての素朴な感想。


 創世記において記載されている系図について、触れられ、神から選ばれた民族であることのユダヤ人の誇りがあることが語られた。旧約聖書39巻のなかで、神と交差する(接触する)ときのみに他の民族が触れられている、という話がなされた。

 そもそも、旧約聖書自体が神の物語である以上、これは当たり前であり、では、当時の諸国民の民がどうだったのか、それをどう旧約聖書本文との理解で考えていくのか、ということを考えるべきであるだろう。焦点の当たり方がアブラハム・イサク・ヤコブの神という概念と、その他諸民族との関係の意味を考えるべきではないだろうか、とは思った。


 その後、将来のユダヤ人理解についての話し手の考えが語られたが、空中携挙の後7年間の恐ろしい時代をユダヤ人が通った後、千年王国となるという話がなされた。

 しかし、これは、先験的にこのようなクラシカルなディスペンセイション説(経綸論・時代区分説)を前提とした理解であり、必ずしも、聖書をからこのような理解が導かれるとは限らないように思うのですが。実に香ばしい話題が当然のようになされた。


 そして、エゼキエル書47章にある、神殿の敷居の下から東の方に流れ出る水というはなしがあり、そして、その水が、死海に流れ込む水と理解されておられ、メシア王国(1000年王国)のときには、死海に多くの魚が泳ぎ、視界に至る川には魚がすみ、川の両岸には、果樹が実を結ぶ姿がまるでエデンの園のような千年王国であることに言及があった。

 これが千年王国の記述かどうかは、かなり疑問だと思う。この部分も、先験的な(聖書を読む前に持っている)前提や理解に依存した理解なのではないかと思った。


 話し手のご主張によれば、この千年王国とされる状況よりも教会(教会時代)の方がすごいらしい。

 お話になっている方が、教会時代のほうがすごいというご主張したいのだな、ということはよくわかったが、その根拠としてどのように納得しておけばよいのかは、私にはよくわからなかった。



 エペソ2:11-12から、昔のユダヤ人にとって、異邦人とは契約を結んでいないとされており、という話があった。

 これは、確かにその旨の文言がモーセ五書中(出エジプト記23:32)に存在する。これは、おそらく商業的な契約を結んではならない、という意味ではなく、軍事協約といった同盟関係、神以上に他国を優先するような同盟関係に入ってはならないという意味であって、どのような契約を結んではならないという意味ではないと思うのだ。
参照 アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(2)


 まず、この話を聞きながら、あれ、イスラエルの民は荒野で旅する際に、在留異邦人もいたはずだし、もともと、中東からヨーロッパ社会の中で、ムスリムとまっとうに付き合ってビジネスし、契約してきたのは、ユダヤ人(ヘブライ人)であったように思う。中世キリスト教徒があまりに頭が固かったので、ムスリムと話すらすることができず、ムスリムとまともに話したのは、ヘブライ人を自称する人たちであったのではなかったろうか。彼らは、きちんと契約を結んだはずであるけれども。彼らの性質として。ま、それはどうでもいいことだが。


もともと異邦人は、我々を含め、神なく、望みもない人たちであった。

 そのあと、エペソ人の手紙 4:17から話があり、神の教会とは、ペンテコステの日に始まり、空中携挙によって、天に挙げられ、そのあと神と共に生きるものとなったという話があった。

 しかし、単純に教会はペンテコステの日から始まったして良いのであろうか。素朴な疑問として思った。


 さらに、教会については、預言書の中に見ることができない。ユダヤ人は知りえなかったのではないか。

 それはその通りである。異邦人とイスラエル人がともに神を拝するなどとは信じられないことである。とは言いながら、もともと、ユダヤ的定義によれば、イスラエル人の始祖であるアブラハムは基本的に改宗ユダヤであるし、ヨナ書やイザヤ書、あるいはモーセ5書のあちこちに書かれている異邦人(モーセ5書の場合、在留異国人ではあるが)と神との関係などは、かなり例外的な規定である。しかし、アブラハムへの神からの宣言によれば、彼は諸国民の民の父とも呼ばれることになるので、メシア(=キリスト)の到来によってユダヤ人と異邦人の枠組みが外れることはかなり明確であるとは思う。



 教会が存在することは、御使いたちにも知らされていない奥儀であった。しかし、イエスが教会に言及している事例もあり、マタイ16章には、体なる教会(これは、むしろ神にあって呼び出され、それに応じたものと理解すべきではないかと思うが)という表現があり、18章には、教会に告げよとふれられているが、これは地域教会である、という話をされた。(しかし、当時のイスラエル人たちは、この集会を聞いたときに、民による全体会議をイメージしたのではないかと思う。ちょうど、レビ記や民数基で示されているような民の集会やベニアミン対策に話し合った士師記に記載されている時のようなものを思い描いたと思う。)


 ヨハネ16:7-14からは、教会と聖霊との関係が語られ、イエス時代の人たちには、聖霊に耐える力がないことを、12節からおはなしされた。

 しかし、ザカリアとエリザベツはどうなんだろう、とは素朴に思った。いつものことではないから、いいのかな。


 さらに、教会は、天使も、預言者も知らない計画であり、弟子たちはわからなかった、ということであった。

 しかし、弟子たちは初代教会の形の原初的形態でもある共同体を形成していたし、弟子たちは一人で使わされていないように思うのだ。これは、教会の原初的教会を示すように思うのだが。


 この(教会時代または恵の)時代に私たちがおかれていることの豊さをお話になったが、この時代を区分することが、パウロのアテネでの説教の中にみられるとのことであった。使徒の17章で「地の全面に住まわせ、天地の境と時代・・・を定めた」の時代という語が、時代区分があることの根拠だそうで・・・。

 でも、ここのオリジナルは、カイロスなので、チーと意味が違うんでないかと・・・根拠としては、どうなんざんしょ。
 

 また、エペソ 3:1-11から、教会の奥儀は、聖霊による(5節)というご説明があった。これはその通りだと思う。教会に関しては、旧約聖書に示されておらず、予型や予表があった。

 たとえば、エノクは教会の先行するモデルや型であり、ノアはユダヤ人の先行するモデルであり、これらは、明らかな型であるのだ。

 エノクは生きたまま取り上げられたから、なのだろうが、では、すでに亡くなったキリスト者は、どうなるのであろうか。確かにモーセたちは、葦の海で水の下をくぐりましたが、だからですか。あのときほかに7人(女性を除けば、3人はおりませなんだか。ほかの息子さんたちも箱舟乗ってましたような気が。(乗船名簿に不備があって、実はスペースシャトルで・・・・とか、厨弐病患者が言いだしそうだね。これを聞いた時、わが耳を疑った。


ユダヤの7つの祭りは、教会の型を示している記述がレビ記にあり、
1過越(十字架)
2除酵(聖なる歩み)
3初穂の祭(復活)
4ペンテコステ(文字通りペンテコステ)
5ラッパの祭り(空中軽挙)
6大贖罪(民全体のあがない 艱難時代の終わり)
7仮庵(千年王国)
がクリスチャン人生と対応している。そして、ユダヤ人はこのようなモデルとして祭式が与えられていることを知らなかった。

以上のようなお話があったが、それは当然だろう。これは、かなり聖書の特殊な解釈法に基づく解釈だから。知っていたとしたら、びっくりではある。

 この辺から時間が無くなったのか、根拠が明らかにされずに話が進んでいくようになったと思う。もうちょっと、きちんとした説明が欲しかった。



 エペソ3:6では、福音により共同の相続者となるという話がされたが、その中で、御国の福音・恵の福音という話がされた。聞きながら思ったのは、そんなにいっぱい福音の種別があるのであろうか。ガラテア1章との表現と矛盾するような気がしたが。まぁ、揚げ足取りややめとこう。

 続くエペソ3:9では、隠されていた奥儀として教会が書かれており、花嫁なる教会を生み出すということを話しておられた。また、3:10では、三位一体の神との関係で購われた、ということについて触れられた。そして、エペソ 1:2-5では、神は、ご自分の子とするためにということが強調された。全体として、予定論風の聖書理解が語られていたような気がする。

 エペソ2:19-22からは、永遠に移住する場所としてのキリスト者集団としての教会という話がされ、御子による完全な救いがあるがゆえに、御子の完全な購いの上にあって、永遠に移住する存在となるというお話がされた。

 これを聞きながら、お話しされている方の、神の国についての考え方をもう少し聞いてみたい気がした。ここが、終末理解と神の国理解の味噌なのに、そこには完全に触れられずじまい。大変残念であった。


 エペソ 5:25-27 教会のためにキリストは命をささげられた、としながら、教会が地上に置かれている理由として、
 (1)きよめて聖なるものとするため、(エペソ5:26-27)であり、聖化のためにおかれている 栄化のための聖化(根拠は?と思ってしまった。)や御前で聖く傷のないものとするため (聖化)であること、さらに、ローマ1-8章では、義認、栄化、聖化がかかれていると御主張であった。このお話になられた方の義認論をもう少し聞いてみたかった。 

 また、ローマ 8:28-32では、栄化に向けて万事益とされる、とのお話があったが、しかし、人間は栄化されていくものなのだろうか、と思った。また、同29節から、我々が御子の体と同じとなるよう定められた、ということが語られた。

 最後にヨハネ17:1-6が引用され、ヨハネ17:13のかれらが教会であるという趣旨のご発言をされ、さらに、私たちのうちにキリストを形作られる、という趣旨のご発言をされたように聞こえた。そして、キリストに似せられる事がすべての信者についての神の希望であり、そしてそれが神ご自身の内住であるということをお話になられたように聞こえた。 

 この時間の話を聞きながら、キリスト、キリストという言葉が何度となく言われたのだが、個人的にはそのたびに違和感を覚えた。キリストとは、油注がれたもの、という意味であり、メシア(メサイア)のことである。それは神からつかわされたものという意味では、我々と重なるが、旧約聖書に言うメシア(メサイア)の重たさを考えるとき、人が果たしてメシアと等しくなるという概念が、あるいは人の中にキリストが形成されるということはどういう意味か、ということをもう少し説明があってよかったとは思うが、そこの部分はほとんど説明がなかった。


 全体として、旧約聖書の理解の手触りというか味わいが、私自身とは違うなぁ、と思ったセッションでした。時間がない、というのであれば、もう少し焦点を絞って丁寧なお話をお聞きしたかったと思いました。私はこう思う、が述べられ、なぜ、そう思うのかが全体にかけていたのが、大変残念でした。
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2013年1月14日に東大阪市民会館で開催された学び会での大まかな講演記録(1)

 今年の東大阪市民会館で開催された学び会には主催者側発表で、40集会から、計540名前後が集合されていたようです。

 お話しされた方が語られた内容はグレーで、聞き手である私が思ったことは青で書いておこうかと思います。

 まず第1講演者である関西地方の教会の責任者のAさんが、「キリストにのちに与らせる福音の力 主の働きに召された特権」ということでお話しされた。

 まず、冒頭で、信仰をもって間もないころは、自分のための神であるが、信仰が進むにつれ、神のための自分となっていくということを説明された。その時、

    自分のための神 ⇒ 神のための自分(信仰の成長)
      Fashion       Mission

という図示をされた。信徒として、神のために生きることの大切さを話された。


 そのあと、韓国の貧しい地域で奉仕している兄弟のところに行った話があって、その韓国の教会の責任者から聞いた話として、Veri Chip(人間のID特定をするための電子チップ)の話がなされていて、間もなくアメリカや韓国などや日本においても、事件・事故の際のID化のために入れるのだ、という話があった。こういう人間に対する国家管理体制が敷かれつつあることに対する危機感が述べられ、その後、年金不安・企業のサバイバル化がすすむなかで、真理のことばを持つことが大事である旨の主張がなされた。


 こういう危機感をあおって、聖書の言葉や神がほら安全でしょ、素晴らしいでしょ、というような論法は、どうなのだろうか、と思った。神そのものが相対化されるように思うのだが。


 さらに、II歴代誌に出てくる、レカブ人の話が出てきた。そのあと、レカブ人に対するエゼキエル書35章の内容が言及され、当時のレカブ人は、先祖が言ったとおりにかなり出エジプトやアブラハム時代の人々のように生きており、歴代誌時代などの当時のイスラエル人と同じようには生きていなかったことが指摘された。

 その上で、レカブ人が孤立しても神に従う道を生きた。という主張がされた。つまり、時代に迎合しない民であることの重要性が触れられた。信仰が生活のすべてであるレカブ人が模範ではないか。みことばに聞く(頑固に聖書にとどまる)事が必要である。

 ただ、この事例のみで聖書に字義通り従うことの根拠として議論してよいのだろうか、社会と分離的に生きることが信仰をまもることと完全に一致するのか、ということに関しては、もう少し詳細が議論をすべきではないだろうか、とは思った。

 そのあと、ヨハネ14:27およびヨハネ16:16・19から、平安は上からくるものであり、安心は水平的なもの(人や社会や制度)からであるという趣旨の説明があり、キリスト者は世のものでないので、このような安心に頼るのではなく、神からくる平安を求めるべきという趣旨の発言があった。

 ただ、聞き手として思ったのは、もともとのギリシア語では、マタイ5:34で、安心と訳されている語も、読み上げられた当該個所でヨハネが書いた平安と呼ばれている語も、基本エイレネンですから、神から来る平安と、人から来る平安ないし人や組織によってもたらされる安心として語ったほうがよいように思うのですが。

 神が選び任命されたものとしてのキリストとして、ご自身が体験された学校での管理職としての経験なども話された。それはそれで、大変な思いをされた、ということだとは思うが、その中で、甲信越地方での奉仕に生き、そして、神に従いはっきりと素直に神の御心に従い、専心される決意をされた話をされた。大変個人としては感動的なお話ではあった。また、決意に至る過程のなかで、自分の悲惨な経験と合わせて、キリストに似たものとして、イエスがののしられた話があり、イエスが、彼らの罪を許せと祈ったし、そして十字架で人の罪を負って死なれたのである、とお話になられた。

 しかし、聞き手として思ったことは、それはこのお話しされた方に起こった特定のことであり、どの程度普遍性があるかどうかに関しては、慎重であるべきであろう。学びというのは、普遍性を求めていくものだとは思うが、どうなんだろうか。こんなことを思う、私がおかしいのであろう。

 さらに、2テモテ1:7-9と2:15が引用され、召しが神からのものであり、それに素直に従うことが重要である、という趣旨のご発言があった。そのうえで、シーナ・アイエンガーの「選択に関する社会実験」の話があり、選択肢が多く提示したからといって商品の販売量が増えるとは限らないという実証実験結果が紹介されたが、話題とのかかわりがいまひとつ分からなかった。提示されたオプションの中から選択せざるを得ない場合と、選択するかどうかと、提示されたものから選択する場合のすべてが選択オプションの場合では意味が違うと思うのだが。このあたりは、選択理論の研究をしているものとしては、特に厳密に分けるべきだと思う。

 また、神が既に信仰に入る人たちを選んでいるのであるし、ローマ8:28・29-30にもあるように、我々は定められた人であり、さらに召され、義と求められ、栄光を与えて下さるのがキリストであるという主張がされた。

 そのあと、東北の炊き出しのときに他者のために並んでいる子供の話があり、何度も並ぶ子供の姿を見た一人のか主のボランティアの人が、彼が他人のために並んで、受け取っているのを知って、その子供を優先させようとしたところ、他のボランティアの人が、彼は他者のために並ぶという行為に意味を見出しているのであり、そのままでいいのだ、という話をされた。
 
 また、柏木哲夫氏の本からの引用で、人生の最後に、怒りを持って人に当たり散らす人、感謝を持って人に接する人が見られるように、その人自身の性質が人生の最後に現れるのである。その意味で、我々がどのような人物であるのかが明らかになる。

 そのうえで、2コリント3:3-3:6までが引用され、私たちがキリストの手紙のようなものであり、(おそらくこう言いたかったのだと思うが、世間に対するキリストの存在を示す宣言として、神の存在と神の計画を)伝えるものである。

 テトス1:3にあるように、私たちは、宣教をゆだねられたものとして、神が選ばれたものとして生きるべきだろうというような主張が述べられた。

 途中の個人的体験のお話がかなり時間をとった感じがあり、むしろ、この話し手の方が聖書の言葉からどのように考えたのか、なぜこのように聖書から考えたのかについて、後半が特に展開が十分ではなかったのは、大変残念に思った。せっかく一生懸命準備をされておられただろうに。少し残念に思った。

 今回の話がMissio Deiとの関連の話であっただけに、もうちょっとこのあたりのことを予習しておけばよかった、とは思った。

 次回更新は、第2番目の九州沖縄地方の話し手の方の講演内容をご紹介する予定。

テーマ:聖書・キリスト教 - ジャンル:学問・文化・芸術

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最近出た海外宣教の歴史に関する本を読んで(12)

先週金曜日、別のことで建てこんでいまして、またもやお休みしてしまいました。今回も、中村敏さんの

日本プロテスタント海外宣教史: 乗松雅休から現在まで

が新教出版社から出ていますので、今回は、この本の一部を紹介しながら、ブラザレンと福音宣教、とりわけ、海外伝道をめぐる考え方について、考えていきたいと思います。

インドネシア宣教会との関連で、戦後の日本の集会で大きな働きをした山岸昇さん(以前にご紹介 http://blogs.yahoo.co.jp/kawamukaih/34828286.html)が出てきましたので、ご紹介します。なお、本書のご紹介は、今回で終わりにしたいと思います。

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1965年に設立されたISK(インドネシア宣教会)は、1970年代前半において、初代宣教師の奥山実一家も含め、4組の宣教師をインドネシアに派遣した。しかしその後奥山は、インドネシアでの過労がたたって病気となり、治療のため帰国し、宣教師を退く、日本で渤海に復帰した。山岸昇は、1972年にインドネシア入りし、インドネシア語を学びつつ本格名伝導に備えていた。しかし結果的に現地の協力団体との関係がうまくいかず、帰国・辞任している。

同書 p.256

 モンゴル・ミッションは、1992年に大阪府堺市にある単立津久野キリスト恵み教会によってはじめられた海外宣教の働きである。この教会の牧師の山岸昇は、1970年代の初期にインドネシア宣教協力会から派遣され、短期間インドネシアで奉仕したことがあった。この宣教団体は、「キリスト教年鑑」によれば、モンゴルのウランバートル他で伝道と教会形成の働きをしている。また、モンゴルだけではなく、スペインのセビリヤ市郊外で麻薬中毒患者の厚生施設を運営している。さらには同じくスペインのあるからしやロシアのイルクーツクでも伝道しており、単一教会の働きとしては広範囲にわたるものである。

同書 pp.273-374
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山岸さんは、大阪のキリスト集会から伝道師として北陸方面の集会を立てあげていきます。北陸などでの働きやその働きの原点となった方です。この影響は、四国などでの伝道などに出て行かれた方に影響を与えた方ですし、津久野キリスト恵み教会と関係の深いエマオ出版(そういえば、最近、決定版終末論、というある意味スゴイ本が出ていた)のサイトを見る限り、CHMとして知られている本(モーセ五書註解を含む)の翻訳をされた方のようです。伝道出版社の本ですが、エマオ出版で山岸さんの翻訳書として紹介されております。

山岸さんの伝道の精神は、日本国内で、非常に伝道が困難な地に出て行き、インドネシアでの伝道を行い、さらに、日本各地で伝道をし、そして、モンゴルに伝道し、スペインに伝道している姿を見るにつけ、このグループに内在した伝道のエネルギーのようなものの存在ということを感じます。


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